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倶楽部報(2016年春号)
前田監督との思い出
清澤 忠彦(昭和36年卒 岐阜商高)
2016年04月08日
1960年、不振を続ける野球部を強化のため日本ビールから監督の前田先輩が来られた。私の3年生の春である。投手出身の若い監督であった。
投手陣に緊張が走った。投手の数は多かったが少しまとまりに欠ける投手陣であった。監督に認められたいと皆懸命に投球練習に励んだ。細かい事は云わず捕手の後で見られるだけであったが、それで十分であった。
監督の計画通り、夏練習の終わった頃から少しずつチームがまとまって投攻守のバランスの良いチームになって来た。安藤、榎本君を中心に足の速い人もいて慶大らしい機動力のあるチームであったと思う。
秋のリーグ戦に入り、順調に勝点をあげ、最終早大に勝って優勝へと気持が高まった。早大は明治戦に勝点を落とし、益々我々の方が有利な状態で早慶戦に入った。決して油断はしていなかったし、早大を甘く見ていたわけでなかったが、何となく合宿に甘いムードの有ったのは確かであった。早慶6連戦はこうして始まった。
1勝1敗になって決勝戦の頃から自分達のペースに入れない試合が続いた。打撃陣も毎日1人で投げる安藤投手の投球に合わず苦戦が続いた。優勝決定戦に入り完全にペースは早大に傾き始めた。安藤投手一人に対して我々は4人が入れ替わり立ち替わりの対戦となってだんだん落ちつかず追い込まれるように防戦一方であった。二度の引分け試合後6戦目で敗けて早大の優勝が決まった。敗けた悔しさも有ったがその時あゝ終わったかとほっとする気分であった。
前田監督は腹の底から煮え繰り返る悔しさを顔に出さず『御苦労さん』と一言云われただけであった。
4年生になり、卒業して社会人野球に進んだが6連戦のことは人に話したくなかった。仲間とも話は避けていたし、勿論前田監督とも話をしたことはない。10年以上すぎて一度監督がどんな思いをされていたのか知りたいと思った。でもそれは実現しなかった。胸に残るこのモヤモヤした気持は50年以上時間がすぎても未だ心に残る。監督を胴上げ出来なかった悔しさ、残念さ、あのメンバーで有利な条件の中期待に応えることが出来なかったことがずっと頭の中に残った。
ここ数年、神宮でお会いする機会が少なくなった。でも昨年春に二度、秋も一度御あいさつが出来た。「足が弱くなったが東京オリンピックまで頑張る」云われたのがうれしかった。
今春からのあのやさしい笑顔を見られなくなり、一時代が去ったと思うことだろう。