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倶楽部報(2025年秋号)

三田倶楽部員奮闘記「スポーツ文化発展へ 理想のTV創りに挑む」

山崎 満靖(平成19年卒 豊田西高)

2025年09月12日

残暑の候、夏は野球人にとってさまざまな思い出がよみがえる季節ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。平素より「ANDTV」に多大なるご協力と叱咤激励を賜り、心より御礼申し上げます。

「日本のスポーツ文化発展のため理想TV創り」に挑戦するANDTVも、おかげさまで開局2周年を迎えることができました。これもひとえに塾野球部との“球縁”あってのことと存じます。三田倶楽部の皆様をはじめ、堀井監督ならびに指導陣の皆様、そして後輩である現役部員の皆様に、厚く御礼申し上げます。

今回は三田倶楽部報で貴重な機会を頂戴しましたので、なぜ、ANDTVの挑戦が始まったのか、その経緯を改めてお話させていただけたらと存じます。

1983年愛知県吉良町出身、薔薇園を営む家庭に三兄弟の末っ子として生まれました。幼少期、父親の膝の中で観た広島vs巨人、炎のストッパー津田恒実さんの全力投球、真っ向勝負に魅せられて野球を始めました。(その津田さんと水野英利先輩=昭和59年卒、刈谷高=が甲子園で対決されていると知り、尊敬の念を強くしました)

中学校まで軟式、中学2年からは並行して硬式野球塾へ。そこで飯田幸夫さん(元中日ドラゴンズコーチ)に習っていたことが四半世紀の時を超えて堀井監督との球縁に繋がりました。高校進学の際にはいくつかの高校からお誘いいただき、当時、三重高校の監督をされていた松井一夫さん(昭和61年卒、千種高)からもお声がけいただいたのですが、中学3年の春に選抜甲子園に出ていた豊田西高校へ進学。選抜16強に導き、慶應義塾大学に進学した松下克也さんと寺田記央さん(ともに平成15年卒)のバッテリーに、自身の未来を思い描きながら文武両道を志しました。実家からの通学では朝練に間に合わないため、1つ上の先輩宅での下宿生活。親元を離れて知る家族への感謝、そして甲子園への挑戦の3年間がメディアを志す強烈な動機になりました。

夏の愛知県大会で2年連続決勝戦に進出し、ともに最後の打者、どちらも2ストライク1ボールからの4球目のスライダーを空振り三振、甲子園を目前に野球の神様に見放された絶望感に苛まれ、バットを置く決断をしました。そんな時、背中を押してくれたのがテレビでした。名古屋テレビの中継で解説をされていたのがイチローさんの恩師である中村豪さん(元・愛工大名電監督)、三振の前の打席で放った左前安打、その背景にあるエピソードまで深読みした解説に救われた心地がし、“いつか自分もこんな風に誰かの背中を押してあげたい”とテレビ局への就職を決意しました。

高校の同期、小林康一君(平成18年卒)が推薦で慶應義塾大学に進む中、一浪の末に商学部に合格、一年遅れで塾野球部の門を叩きました。打率5割、強打の一塁手でならした高校時代、大学でも神宮にアーチを…とファーストミットでキャッチボールをしていた入部2日目、当時コーチをされていた林卓史さん(平成10年卒、岩国高)から「投手できるだろ?」とお声がけいただき、投手に転向(野球を始めたきかっけは津田恒実さん)、9種類のフォークボールを武器に一瞬だけ一軍昇格したものの、神宮デビューには至らず、1期下に後の「ドライチ」、加藤幹典君(平成20年卒、川和高)など、優秀な後輩が続々入部したこともあり、2年夏に野手に再転向、2年秋の新人戦は代打で三邪飛。3年夏に一瞬だけ一軍昇格したものの、またも神宮デビューには至らず…私の大学野球は「記録無し」で幕を閉じました。

一方で高校時代に決意したテレビ局への就職は叶えることが出来ました。関西テレビの大槻文人さん(平成3年卒、慶應高)はじめ、塾野球部の諸先輩方に御助言をいただきながら、自己分析と志望動機を徹底的に磨きました。面接の際に早実野球部OBの方からの圧迫面接で「早慶戦出てんの?」と質問された際、「大学では1試合も出場出来ていません、だからこそ見えた世界があります、何事にも表と裏があり、裏があるから表舞台は成り立つ、だからこそテレビでそれを伝えたいんです」と答え、テレビ東京に内定を得て就職。圧迫面接の相手が、鴛海正昭さん(昭和59年卒、都立東大和高)と同郷の先輩で、大学4年時の監督であった相場勤さん(昭和62年卒、桐生高)を取材していた方だったのも球縁でした。

テレビ東京で14年(スポーツ10年、営業4年)、主にアスリートとの信頼関係から他では撮れない映像の積み重ねであるドキュメンタリーや、過去に例のないスポーツ中継、番組を作らせていただきました。そんな中、テレビマンとして強烈な教えを受けたのが朝日放送の中村大輔さん(平成7年卒、富士高)でした。巨人担当時代に甲子園遠征の際、高橋由伸さん(平成10年卒、桐蔭学園高)にご紹介されて以来、テレビマンとして、男として人生の節目ではいつもお話をうかがわせていただき、昨年、ギネス記録にもなったバーチャル高校野球が出来る前から「テレビの力でスポーツの現場に還元する」構想をうかがっておりました。

一方でマスメディアの現実を知り、その特性上、自分が目指す「名もなきストーリー」を伝えることはテレビだけでは難しいことも痛感し、2021年に退職。中村さんと一緒にスポーツの力で世の中を明るく…と考えていた矢先、テレビ東京を退職する9日前に、中村さんの突然の訃報に接し、あまりにも早い別れに言葉を失いましたが、同時にその想いを受け継ぐ決意を強くしました。

テレビ東京から独立して、大病も経た2年後、自社YouTube「ANDTV」を奇跡の薔薇を作る父親の「名もなきストーリー」から始めました。そんな中、塾野球部密着取材の始まりは、まさに偶然の「球縁」でした。2023年夏、仕事で旭川を訪れた際、「慶大野球部旭川合宿」のポスターを偶然見かけ、思わず当時助監督を務めていた同期の中根慎一郎君に連絡をしました。すると『堀井監督が山崎のことを覚えているよ、あいつ、いいバッターだったんだよなぁ』との返事、それが卒業以来16年ぶりにグラウンドを訪れるきっかけとなりました。実は大学4年の時、当時JR東日本監督を務められていた堀井監督が下田グラウンドに指導に来られ、その際わずか数秒ながらご挨拶をさせていただいたことがありました。その短い時間にもかかわらず、覚えていてくださったことに胸が熱くなり、そこから堀井監督への密着取材企画がスタートしました。

まるで昨日のことのようによみがえる塾野球部との「再会」。振り返れば、この2年間で数えきれない経験をさせていただきました。カメラを通じて選手の表情やしぐさ、言葉から成長盛りの若き血を感じ、堀井監督の取材を通じて人としての在り方を学ぶ。数字以上に価値ある時間をいただいております。

一方で、このままではいけないという危機感も強く抱いております。ご視聴いただいている方はお気づきかもしれませんが、現行の制作体制では限界を迎えつつあるのも事実で「日本のスポーツ文化発展のため理想のTVを創る」挑戦は瀬戸際に立たされています。それでもこのピンチを乗り越え、「超満員の神宮球場」実現へ、次の攻撃のチャンスへとつなげるべく挑み続けます。

2025年も残すところ、あと4か月。しかし、その間に大学野球は秋季リーグ戦、明治神宮大会と大きな盛り上がりを迎えます。是非、AND TVで塾野球部の最新情報から舞台裏までのストーリーをご覧いただき、神宮球場へお越しいただいて、塾野球部「チーム外丸」を応援し、ともに「日本一」の景色を見られましたら、幸甚に存じます。

厳しい暑さが続きますが、変わらぬご支援ご厚情、そしてチャンネル登録のほど、よろしくお願い申し上げます。
https://youtube.com/@andtv2023?si=Hykxf-lsF7djgx5B

(合同会社AND社長)


高校3年の夏、愛知県大会決勝戦後の表彰式で。うつむく選手が多い中で見上げていたのは、「2年連続最後の打者」を誰も聞いてこなかった記者席に向かってのことだった
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失意の中、帰宅後に見たテレビで、三振の前に放った安打の解説に心が救われ、テレビ業界を志す
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大学では4年間、リーグ戦は未出場。神宮球場で唯一のプレーとなった2年生の秋の新人戦後に撮った集合写真
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慶應義塾のユニフォームでの写真がなかったため、日吉の第一合宿所の脇のブルペンで就職活動用に撮った写真
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堀井監督との球縁で16年ぶりに下田グラウンドに。ANDTVの火付役となった、「日本一の舞台裏」を描いた作品のサムネイル画像
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神宮球場での取材風景。球場内の取材許可を得てメディアとして認められるまであと少し?神宮球場での取材風景。球場内の取材許可を得てメディアとして認められるまであと少し?
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