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倶楽部報(2025年春号)

大戸洋儀君を偲んで

清澤 忠彦(昭和37年卒 岐阜商高)

2025年04月11日

清澤 忠彦

大戸君に最後に会ったのは2024年1月、品川のホテルで前年優勝した祝賀会の席であった。少し病気をしていると言いながら朗らかに笑い、人柄は周りをホッとさせるものがあった。

最初に会ったのは1961年春、日吉のグランドでだった。私は4年生、彼は新人で、最初のころの印象は、細身であまりしゃべらない静かな男というものであった。同期には後年、慶応の黄金時代を創る面々がいて、すぐにもプロ野球に入れる仲間たちであった。

4年生と1年生、いつの時代もそこには大きく高い壁があった。私が1年生の時はその壁はもっと高いものであったし、直接、上級生たちとは話も出来ないムードがあった。

私は卒業して大阪の住友金属に入社。都市対抗の予選、大阪市代表を争う地区である。強豪ぞろいで、日本生命、鐘紡、電電近畿が上位にいて、その次に住金、高島屋等3チームがひしめき合う地区であった。当時、後楽園に出場できるのは2チーム。我が方はなかなか勝てず、補強選手として上京はしていたが、毎年ユニホームを着ているので山本英一郎先輩(昭和17年卒、台北一中)に、「キヨお前は何処の会社か?」と言われたことがあった。

大戸君は大学時代、リーグ優勝を3度経験。ベストナインにも選ばれるなど活躍し、数多い勧誘のなか、1965年鐘紡(淀川)に入社。この年、私のいた住金は、和歌山に大製鉄所の完成がまじかで従業員の意気を高めるため野球部を移せと言う事に成り、その年の2月に大阪から和歌山に移った。会社の都合とは言え、大阪では勝てないので、都落ちした気分であった。当然相手が違う。日鉄広畑、松下電器、カネカ等弱い相手では無かった。

その年、鐘紡は大阪市代表1位で日本生命から5人の補強選手を加えて万全の態勢で都市対抗本番に出場。2位は電電近畿。補強は残りの中から5名を入れて本大会に出場。一方我がチームは、簡単には代表にはさせてくれない。苦戦苦戦の連続で、やっと近畿2位に滑り込んで東京に行ける事になった。

鐘紡は脚光を浴びて、もう優勝しかないといった陣容であった。しかし野球はそんな簡単なものではない。補強の小弓場投手は鐘紡が取ってくれない悔しさをここから発揮、どんどん勝ち進み上位に。我々は後楽園に出るだけで満足であった。軽い気持ちで球場に入り戦ったものの、あれよあれよと勝ち進んだ。そして決勝戦は電電近畿と対戦することになった。ここにきてよし勝つぞと思ったとたん、相手のペースに押されて負けた。

大戸君は活躍したが、鐘紡の名前だけでは勝ち進むことはできなかった。

9月、全日本チームは3週間の日程で中南米遠征が行われ、電電近畿を中心に、5名の補強選手が選ばれて羽田を出発。大戸君も私もメンバーに入り、ペルー、ブラジル、アルゼンチン、メキシコと19試合、地球の裏まで行って野球を楽しんだ。ブラジルで昭和38年卒の平嶋太助君(八女高)に会い、こんなところで再会するとは、びっくりしたものだ。

最終戦、メキシコに負けて18勝1敗で帰国した。大戸君は主力であったが、静かな男の印象はそのままであった。

品川の祝勝会で久しぶりに会った。しかし、長い時間会っていなかったことなど全然気にせず、昨日会って別れたような気持ちにさせる。

2024年6月頃であったか、電話がありゴルフを北海道でやろうと誘いを受けた。彼の腕前はシングル、私はもう数を数えないゴルフをするだけ。そんなゴルフ遠征は出来ないと断った。

今思う。バックを担いで、北海道に行ってゴルフをして、上手い物を食べておけば良かったと。

さらば大戸君。有難う大戸君。


清澤さん(左)と大戸さん=2024年、品川プリンスホテルでの優勝祝勝会にて
清澤さん(左)と大戸さん=2024年、品川プリンスホテルでの優勝祝勝会にて

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