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倶楽部報(2021年秋号)
三田倶楽部員奮闘記「野球部で培った精神を忘れずに」
加藤 健(昭和63年卒 柏陽高)
2021年09月10日
2019年4月からタイの首都バンコクに駐在していたのも束の間、新型コロナウイルスの感染拡大が世界で最悪になりつつあったインドのデリーに本年4月より異動となった。大学を卒業後、伊藤忠商事に就職し、現在も勤務している。野球部時代からの習性か、命令されれば素直に従い、世界中どこへでも行く。しかも体力をあてにされての指名ではあったと思うものの、コロナ禍の中での現地法人の責任者ということで、若干の不安を抱えながらの移駐となった。
その不安が現実となった。赴任直後の4月25日(日)に発熱があり、念のためPCR検査を受けたところ、5月1日(土)に陽性反応が判明。喉の痛み、咳、頭痛に悩まされながらも、5月18日(火)に陰性となり、一息つく。ただし、この後も6月末まで、喉、気管支の痛み、偏頭痛が続き、あらためて恐ろしいウイルスであることを実感した。感染経路に心当たりがなく、変異株であった可能性が高い。とにかく、インドで死んで母なるガンジスに抱かれずに、今もまだ生存できていることに感謝。日本もまだまだ大変な状況と理解しておりますが、皆様におかれましてもご注意をと思います。
そこで野球部時代の話に移りたい。コロナ禍で明るいニュースがあまりなかった中、野球部が全日本大学野球選手権で優勝し、34年振り4回目の「大学日本一」となったという朗報がもたらされた。何を隠そう34年前の前回優勝時の4年生が我々の代である。決勝の相手は東北福祉大学。当時の監督は名将・故伊藤義博氏で、エースはアンダースローの3年生、上岡良一投手(のちに日本ハム・ファイターズ)、2年生に大塚光二外野手(のちに西武ライオンズ、現東北福祉大学監督)など役者揃い(そういえば、当時2年生だった、のちの“大魔神”こと佐々木主浩投手は投げなかったなあ。あまり記憶にないが、ベンチ入りしていなかったのか)。自分は選手権を通じて、レベルの高い相手投手陣に歯が立たず、決勝でも内野安打1本と不甲斐ない成績に終わったものの、リーグ戦から好調を維持していた4番打者の大森剛内野手、エースの志村亮投手などの活躍でなんとか優勝した。
この後、日米大学野球のメンバーにも選ばれ、プロで活躍した古田敦也選手(立命館大学、のちにヤクルト・スワローズ)、野村謙二郎選手(駒澤大学、のちに広島東洋カープ)と一緒にプレーすることができた。また相手の米国チームのピッチャーが軒並み見たこともない150キロ台の剛速球を連発する連中ばかりで、ここでもレベルの高い野球(ベースボールといったほうがいいか)を体感。東京六大学野球で人並みの成績は残せていたのではないかと思っていたが、上には上がいるものだと実力の違いを実感した。一流のバッターに共通することとして、選球眼の良さ、ひざの使い方、間の取り方などがあるが、このレベルになるとベースとして身体の強さが必要である。それはやはり野球の練習、特に打者は素振りでしか醸成できないのだと思う。
日米大学野球を終え、大学生活最後の秋季リーグ戦に向けて身体を鍛えなおす時期ではあったが、ハワイ遠征という日程が組まれていた。日米大学野球から遠征続きで、当然、練習はおろそかになる。このようなイベントに参加できたことは光栄であり、貴重な経験となったわけだが、日吉で走りこめない、バットを振り込めないという不安感は的中する。秋のリーグ戦は結局、5位という成績に終わり、自分自身も4シーズン目で初めて打率3割を割り込むこととなった。
大学選手権優勝から最後の秋のリーグ戦5位までの時間は、今でもたまに夢に出てきて不安な気持ちになることがある。まさに「天国から地獄」「人間万事塞翁が馬」「油断大敵」といった言葉が走馬灯のように頭に浮かぶ。今の野球部に隙はないと思うが、34年前のようなことを繰り返さないよう、現役の諸君、特に4年生には秋の慶早戦で勝利し、春に続く連覇で有終の美を飾っていただくことを切に希望する次第である。
ちなみに現在、芸能界で活躍中の長嶋一茂氏(立教大学)は同期であるが、彼との会話で忘れられない言葉がある。大学を卒業した後の進路の話をしていた時のこと。
(一茂氏)「健は、長嶋茂雄の息子だったらどうする?」。
(私)「想像がつかないな。でも野球はやりづらいだろうな」。
(一茂氏)「絶対にプロ野球に行くよ。どうせ世間に何か言われるなら、やることを選択する。失敗しても食うに困ることはない。長嶋茂雄の息子だからな」。
彼が今でも生き馬の目を抜くあの世界で活躍できている理由を垣間見たような気がする。
タイ駐在時に少年野球で指導する加藤建さん(左)
インドのデリーの事務所で勤務する加藤健さん