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倶楽部報(2024年春号)

「下級生から慕われた苦労人タイスケよ、やすらかに」~渡辺泰輔さんを偲んで~

大戸 洋儀(昭和40年卒 一戸高)

2024年04月12日

東京六大学野球リーグで史上初の完全試合を達成した渡辺泰輔さんが2023年12月20日、敗血症性ショックのため亡くなった。81歳だった。慶應義塾高校時代は、1960年の選抜大会に出場し、ベスト8。慶應義塾大学では通算29勝(9敗)、リーグ優勝を3度経験。ベストナインにも3年春から4年春まで、3季連続で選ばれた。卒業後、プロ野球南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)に入団、1972年に引退するまでプロ8年間で通算54勝(58敗)を挙げた。渡辺さんを偲び、大学時代の同期で、後に1972年から75年まで大学野球部の監督を務められた大戸洋儀さん(岩手県立一戸高校出身)に想い出を語ってもらった。(聞き手・庄司信明 昭和59年卒 九段高)

訃報を受けたのは、同期で旭川市議会議員の杉山允孝君からの電話でした。ある程度覚悟はしていました。毎年夏に旭川市で開いている同期会にもこの2年間はタイスケは欠席。電話では、「異常なくらい体が動かなくなった」と。もう車いす生活だったんです。

最後に旭川に来た時。いつもは仲間と一緒にゴルフをしますが、タイスケはできなかった。ホテルのサウナでたまたま二人きりになった時、タイスケが言いました。「来年は歩けなくなるかもわからんなあ」。私は、「大丈夫だよ。気持ちの持ち方で病気なんかなんとでもなるよ」となぐさめたつもりだったんですが、今思うと、本人は自覚しとったんじゃないですか。本当にもったいない男を失いました。

彼の野球人生は順風満帆だと思われるかもしれませんが、彼ほど苦労したエースピッチャーはいないでしょうね。私たちが大学野球部に入部した頃は、あの伝説の早慶6連戦(1960年秋)で投げていた清澤忠彦さんや角谷隆さんら錚々たる投手がいました。その中でタイスケは甲子園に出ていたこともあり、次の時代を背負うのは渡辺泰輔だ、と期待されていたんです。

それが、1,2年生の間はイップスに陥りました。つまりボールが放れなくなる。フォームも崩してしまった。彼はそれを克服するために相当苦労をしているはずです。同期生でもタイスケより先に神宮デビューをしている投手が何人かいて、忸怩たる思いもあったのではないでしょうか。練習量も相当なものだったと思います。

大リーグの解説書もよく読み、ボールの握り方や投げ方を研究していました。当時のピッチャーの球種は、ストレートとカーブとシュートぐらいなものでしたが、彼はパームボールという球を習得したんです。手が小さく、指が短かったので、ボールを挟むフォークは投げられない。だから手のひらで握るパームボールを研究したんだと思います。私もキャッチボールでパームボールを投げてもらったことがありますが、ボールが消えるんですね。そのくらいよく落ちていました。

パームボールを自分のものにした3年春から、どんどん勝ち星を重ねていきました。そして4年春の1964年5月17日、東京六大学史上初の完全試合を達成します。対立教大学2回戦です。

私は「6番レフト」でした。27アウトのうち、私は二つ“貢献”しました。一つは8回の左飛、もう一つは9回のファウルフライです。8回のレフトフライは、私が一瞬、バックしたもんですから皆、ハッと思ったらしい。私は慌てて前へ突っ込んで捕りました。皆は「やっと捕った」と言いますが、「私だから捕れた」と言い返します。

今でもあのシーンは夢に出てきます。その夢ではボールがどんどんレフト線に切れていく。一生懸命追いかけてもグローブが届かないんです。もちろん完全試合だとはわかっていましたが、それが東京六大学リーグで初めてだったとは、知らなかったですね。

タイスケを想い出す時、一番に浮かぶのは人柄の良さです。入部した時から出身地域で「都会組」と「地方組」の軋轢みたいなものがありました。彼は九州男児でありながら高校から塾高なので、その間に入ってクッション役になってくれました。下級生からもとても慕われていて、一つ下の個性豊かな江藤省三君や広野功君、森川勝年君らのよき相談相手になっていました。

とてもシャイですごく明るいところもある。同期生を「さん」付けで呼び、下級生の面倒見もいい。いろいろなところに気遣いができる男でした。私は天国に向かってこう言いたいんです。「オレはもう一回、オマエが投げている時に守ってみたい」と。安らかにタイスケ、ありがとう。《『三田評論』2024年3月号「丘の上」から》



完全試合を達成した渡辺泰輔さん(慶應義塾野球部125年史より)


大戸洋儀さん

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