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倶楽部報(2022年春号)

三田倶楽部員奮闘記「アフリカ野球 その情熱の源泉」

友成 晋也(昭和63年卒 慶應高校)

2022年04月08日

友成 晋也

アフリカといえば、貧困、紛争、感染症。こんなネガティブなイメージを思い浮かべる方々が多いのではないかと思います。そのアフリカは今、巨大ショッピングモールが次々とでき、高速鉄道が走り、人々がスマホを持って生活しています。この情報化時代にあまりに知られてない事実ですが、これは現実です。

私は、国際協力機構(JICA)に約30年勤務し、開発途上国支援を仕事としてきました。初めての在外事務所勤務は、西アフリカのガーナ。1996年、JICAガーナ事務所の所員として赴任したことが、私のアフリカの第一歩でした。保健医療や教育セクターのプロジェクトの運営管理を任され、現場を回れば、ガーナはまさに冒頭のネガティブな印象そのままの国でした。

私のガーナ勤務は、25年にわたる「アフリカ野球」のスタートとなりました。大学まで野球を続けた経験を買われ、ガーナ・ナショナルチームの指導を依頼されたのです。在勤時代の3年間はJICAの仕事の傍ら、オリンピックを目指す代表チームの監督を務めることになりました。慶應義塾のEnjoy Baseballの精神で、厳しく楽しむ指導を施し、選手たちは野球の魅力に夢中になっていきました。
帰国後は、野球というスポーツがアフリカにも必要だとの信念から、NPO法人アフリカ野球友の会を立ち上げ、JICAと兼業しながら、アフリカ野球にずっと関わり続けてきました。

2012年、タンザニアに事務所次長として2度目のアフリカ勤務をした際に転機が訪れました。全く野球がなかったこの国にどうやって野球を導入すればよいのか。ふと、「野球を始めた生徒は規律正しく、一生懸命物事に取り組むようになって、成績が上がる」というガーナの校長先生の話を思い出しました。そこで、ある学校に乗り込んで校長先生に、「この学校の目標はなんですか」と尋ねたのです。「そりゃあ、生徒たちの成績を上げて進学率をあげることだよ」と答える校長に私は提案しました。「実は成績が上がるスポーツがあるんですよ」−。

こうして始まったタンザニア野球のスローガンは「規律、尊重、正義」。この3つの価値を育むことができるスポーツとして評価が高まり、野球が地方まで広がっていきました。2014年からは毎年、「タンザニア甲子園大会」という名称の全国大会が開催され、昨年12月には第9回大会が開催されたところです。

2018年、私はJICA南スーダン事務所長として紛争危険地に赴任しました。ここでも迷うことなく仕事の傍ら野球普及を行い、在任中に南スーダン野球・ソフトボール連盟を立ち上げるまでになりました。同国では、帰還した元難民の若者たちが、今も夢中で白球を追っています。

しかし、JICAの仕事は楽ではありません。時には厳しい環境の地で治安や風土病と戦い、相手国政府高官と時にはハードなネゴシエーションや調整で徹夜になることもあります。JICAとNPO経営の二刀流。その情熱はどこからくるのですか、とよく訊かれます。ただ、情熱があってもそれを継続できなければ、なにも成し遂げられません。めげずに、とことんやり抜くチカラ。アフリカ野球にかける私の情熱の源泉は、体育会野球部時代にあります。

猿田和三主将の元、鈴木哲、加藤健、加藤豊と全日本チームに招集されたタレントぞろいの我が同期。35年前、日本一になったのは私たちが4年生の時でした。しかし、私自身は4年間、一度もベンチに入ることなく終わりました。日吉のグラウンドでひたすら汗を流すのみの日々でした。そんな私がなぜ最後まで野球部に残ったのか。それはある日の練習が、私に強烈な精神力と自信を与えてくれたからです。

あれは2年目の猛暑の夏。当時、下級生を指導する新人監督は関西弁を操る4年生の村井保仁さん。外野のポールとポールの間をフェンス沿いに走って往復するトレーニング「ポール・アンド・ポール」で、4本を終えてくたばっていると、「5本目がラストじゃ。全員タイム内にゴールしたら終わりじゃ」。しかし、全員入るわけはなく、「もう1本!」が繰り返され、本数は増えるばかり。10本を超えたあたりで3分の2以上が脱落しました。13本目。やっと全員ゴールで終了。残ったのはたったの6人。そのうちの1人が自分でした。

ゴールと同時にグランドに倒れ込みました。心臓の鼓動が激しすぎて、どんな格好をしても苦しい。熱いグラウンドの上で、鳥肌が立つくらい自分の体温があがっているように思えました。この時の練習ほど命の限界を感じたことはなかった。「最後までよう頑張ったな」という村井さんの声が、気を失う寸前だった自分の耳に届いたことを昨日のことのように覚えています。この時から、どんな肉体的、精神的な困難に遭っても、「あの日の練習に比べたら、なんてことない」と思えるようになりました。それが、大学時代、そして卒業後、今に至るまで私の人生の支えになりました。

私は、2020年末にJICAを早期退職し、アフリカと野球にかかわって25年目の節目の年に「アフリカに野球を広める夢」を実現する組織、J-ABSを立ち上げました。かつて貧困が蔓延していたアフリカは、25年経って高度経済成長時代を迎え、今や21世紀地球最後のフロンティアといわれています。そのアフリカ社会をリードする人材が、野球を通じて育ち、未来の担い手になる。アフリカ各国の人材育成と全国大会開催を目指す「アフリカ55 甲子園プロジェクト」はアフリカのためだけではない。彼らが社会の中核になる頃、少子高齢化で縮小する日本経済を救う存在になっているでしょう。

この構想に松井秀喜さんも賛同いただき、J-ABSのパートナーとなってくださいました。さらに多くの法人、個人のパートナーを集め、アフリカ中に野球が広がる夢を実現していきます。その道のりは決して簡単ではないですが、あの日の練習に比べたら、たやすいチャレンジだと思っています。

友成晋也 大学卒業後、リクルートコスモス社勤務を経て1992(平成4)年、JICA(独立行政法人・国際協力機構)に入職。アフリカに3カ国で通算8年半勤務。その間、ガーナ・ナショナル野球チーム監督、タンザニア・ナショナル野球チーム監督、南スーダン・青少年野球団監督を歴任。米紙ニューヨーク・タイムズで「アフリカに野球を根付かせた日本人」として紹介され、2021年のニューズウィーク日本版で「世界が尊敬する日本人100人」に野球界から大谷翔平、ダルビッシュ有の両選手とともに紹介された。著作に『アフリカと白球』(文芸社)、連載『野球人、アフリカをゆく』(朝日新聞ウェブメディア「論座」)。

南スーダンの野球団を指導する友成晋也さん(中央奥)
南スーダンの野球団を指導する友成晋也さん(中央奥)

「アフリカ55 甲子園プロジェクト」の記者会見に臨む友成晋也さん(前列左)
「アフリカ55 甲子園プロジェクト」の記者会見に臨む友成晋也さん(前列左)

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