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倶楽部報(2017年秋号)

鳥せい大将の思い出

猿田 和三(昭和63年卒 秋田県庁勤務)/村山 雄紀(平成22年卒(有)谷津倉治療院勤務)

2017年09月13日

「鳥せい」の大将を偲んで

「鳥せい」の大将、塚崎 勇さんが亡くなりました。7月25日に通夜・告別式が家族葬で行なわれ、ファン等の関係者には『お別れの時間』が設けられました。残念ながら小生は参列できませんでしたが、各年代でお世話になった皆さんが参列したそうです。

大将は、宮城県白石市の出身で東北出身者には特に優しくしていただきました。お店は昼間は会社勤めだった大将が昭和50年頃に開店したと聞きました。

飲み物はひたすらビールで、廊下の冷蔵庫からのセルフサービスで取り出し、申告制の精算がルール。行くと必ず注文した「鳥刺」は絶品でした。試合前日にお願いすると「今日はやめとけ」と断られたこともあったとか。常連は合宿所が近い蹴球部が最も多く、ドラマの主人公が学生時代に通った店としても登場します。彼らと同席すると最後は何故か一気飲み合戦のどんちゃん騒ぎになったものです。勢い余って店外で腕力勝負の決闘にもつれ込んだCTBと右腕もいました。

「鳥せい」で忘れられない人が二人います。ひとりは「竹内さん」です。個性的な風貌と甲高い独特の声の持ち主で、カウンター席で入ってくる学生の出身校、ポジションを全て言い当てます。一体どこでどうやって覚えていたのでしょう。

もうひとりは「英枝」のおばちゃんです。おばちゃんは「鳥せい行ってんのか。うちに来なきゃだめ。」とよく叱られました。おばちゃんは大将をライバルと思っていたようです。

早いもので卒業して30年になりますが、合宿所生活の思い出は最高の財産です。特に練習後に皆と飲むビールは格別に愉快なものでした。鳥せいの大将や英枝のおばちゃんは、レギュラーも控えも上級生も下級生に対しても、勝っても負けてもいつも変わらない態度で応対してくれました。

このたびの訃報を聞き、未熟だった学生を一人前の大人として尊重し、見守り、激励して下さった大将に改めて感謝する次第です。心からご冥福をお祈りいたします。

(猿田 和三 昭和63年卒 秋田県庁勤務)


鳥せい寮での4年間

「御子息様の入寮先は『とりせい合宿所』です。」塾への進学が決まり入寮を待つ私のもとに、野球部より知らせが入りました。変わった名前の寮だな、くらいにしか思っていませんでした。迎えた入寮日、期待と不安と緊張感と、様々な気持ちが交錯していたことを記憶しています。秋田から上京し、日吉駅に到着。大きなバックと地図を片手に寮の住所目がけて歩くこと15分。KEIOボーイが住まう寮は超一流だと疑ってやまない私の目に飛び込んだものは、「とりせい」の暖簾。どうみたって焼き鳥屋さん。まさか、、、嘘だろ? 

衝撃的な入寮日から7代目寮長になり引退するまでの4年間、鳥せい寮にお世話になりました。

「鳥せい」はその名のとおり日吉本町に店を構える鳥料理専門店です。店主は通称「大将」。普段は奥さんと一緒に店を切り盛りされていました。私が大学3年の時、大将は70代。当時お店を出して26年経つと聞いていましたので、今では35年程経っていることになります。4年間指導して下さったS63年卒の相場勤元監督も現役時代によくお世話になっていたそうです。ランチタイム、ディナータイムと野球部のみならず、他体育会学生の胃袋を満たし、時にはリーグ戦前の決起集会の場になり、時にはOBと現役部員の交流の場になり、長きに渡り塾野球部にとって共通の集いの場としての重要な役割を担って下さいました。

大将は宮城県白石の出身で、秋田出身の私を東北のよしみとして本当によく面倒を見て下さいました。大将の東北訛りが何とも安心感を与えてくれたものです。私には「夜食練」がありました。華奢な私を不憫に思ったのか閉店後によく、「村山ぁー!店に降りてこーい!!」とお呼びかかかるのです。毎度ながらすでに夕食は済んでいます。お構いなしにそこからカレーライス、鳥丼、野菜炒めと、もともと食の細い私には大変な夜練でしたが、大将のおかげで神宮で戦う身体づくりができたことは言うまでもありません。大将は親元を離れて暮らす私たちがしっかりと育っていくよう大きな愛情をもって接して下さいました。

卒業後7年の歳月が流れる今年7月下旬。大将に最期のお別れをしました。棺の中には相変わらず歳を感じさせない大将がいて、今にも鳥せいのカウンターの中で大きな中華鍋を振りながら豪快に笑いあげる声が聞こえてくるようでした。聞いた話によると、老体に鞭打って亡くなる直前までお店を開けていたそうです。腹を空かせて待っている学生の為に頑張ってくれていたのですね。本当に長い間、お疲れさまでした。

歩く度に揺れる外階段も、4畳半での2人部屋生活も、締まらない窓から入り込む焼き鳥の煙も、そして知る人ぞ知る鳥刺しも。鳥せいでの全ての思い出が私の宝物です。野球部で4年間辞めずに過ごすことができたのも、日吉に大将という親父がいてくれたおかげです。本当にありがとうございました。これからも塾野球部を見守っていて下さい。ご冥福をお祈りいたします。

(村山 雄紀 平成22年卒 (有)谷津倉治療院勤務)

鳥せい
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