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倶楽部報(2016年春号)

松尾俊治先輩を偲ぶ

青島 健太(昭和56年卒 春日部高)

2016年04月08日

文筆で学生野球を照らす

有名無名を問わず、これまで多くの方が学生野球の発展に貢献され、その健全な運営に寄与されてきた。2月5日に亡くなった元毎日新聞運動部記者・松尾俊治先輩(元日本野球連盟参与)は、そうした方々を取り上げて新聞や雑誌を通じて世に紹介してきた人でもある。戦前戦後の多くの選手、OBを取材し、学生野球の歴史を照らす書籍も数多く残している。その91年の生涯は、どちらかと言えば裏方に徹したものであったが、学生野球を愛する情熱とあるべき姿勢を示し続けた気骨は、まさに学生野球の精神そのものの体現者であったといえるだろう。

松尾先輩は、大正13年(1924年)に生まれた。「俺は、甲子園球場と同い年なんだ」というのが生前の口癖だった。晩年も自身の齢(よわい)と甲子園球場の歩みを重ねて「ずいぶん頑張ってきたよ」と笑いながら言っていた。

子供のころから、自分の分身のような甲子園球場に足繁く通い野球観戦に興じた。地元の名門、灘中学に進み昭和18年に慶應義塾大学に入学した。「学徒出陣」それまでは免除されていた大学生も徴兵されることになり、出兵の前にもう一度だけ野球をやろう……と実現した「最後の早慶戦(昭和18年秋)」のメンバーでもある。そして多くの球友、学友が戦地で若い命を落とした。松尾さんの学生時代は、まさに戦争の真っ只中にあって野球どころではなかった。しかし、そんな時代を振り返っても松尾さんはユーモアたっぷりにその時代の苦労話を聞かせてくれた。選手の食料を手に入れるために奔走し、夜、川を舟で渡り米を運んだり、バットケースに米を入れて持ち帰ったりした。学友の実家が「福神漬け」を製造していると聞き、もらい受けた大量の「福神漬け」を早稲田大学野球部にも届けたと、自慢げに話していた。戦中戦後は、各大学の野球部も食べることで精一杯だったのだ。

昭和23年、大学を卒業した松尾さんは、迷うことなく毎日新聞社に就職する。子供のころからあこがれていた野球記者になるためである。すぐさま運動部に配属された松尾さんは、喜々として取材に明け暮れ、大好きな野球の記事を書きまくった。プロ野球、社会人野球、大学野球、高校野球、あらゆる野球を取り上げて、選手、監督を語り、日本の野球、学生野球のあるべき姿を示した。

そんな松尾さんに出会ったことが、実は私の人生を大きく変えている。昭和50年、高校2年の秋の関東大会だった。神奈川県の保土ヶ谷球場で小山高校(栃木県)と対戦した母校・春日部高校(埼玉県)は、準決勝で敗退(選抜の補欠校)。失意の中でグラウンドを後にしようとしたとき、松尾さんから声を掛けられた。「青島君は、どこを受験するつもりなんだ。慶應を受けるつもりはないのか?」

正直、そのときには大学で野球を続けるつもりはまったくなかった。慶応義塾には多くの卒業生を送り込んでいる春日部高校だったが、野球部に入った先輩は誰もいない。家も決して裕福ではない。国公立を受験して教員になることを漠然と考えていた。しかし、そこに新たな道を教えてくれて勇気をくれたのが松尾さんだった。

「慶応を受験して、六大学で野球をやってみないか?」

心はすぐに決まった。それこそが次なる道だと、何の迷いもなく我が身は躍った。そのときにもらった松尾さんの名刺は、受験勉強中の眠気を覚ます「まじない」として机の前に貼られていた。そして今、私がスポーツライターとして文筆を生業にしているのも、遠いあの日以来、松尾さんの影響を受けているからなのかもしれない。

若い人たちにとって、松尾俊治さんを知る由もない。そして彼は91年の生涯を閉じて旅立っていった。しかし、甲子園球場が今もあるように、松尾さんの精神は学生野球に色濃く刻まれている。その一生を野球に捧げ、戦争に散っていった球友の分まで野球を楽しむことを貫いた。彼の若い人への願いは、野球をやれることを喜び、その可能性を全うすることに尽きるのだと思う。だから私にも声を掛けてくれた。天国で松尾さんは言っている。「君たち野球を楽しくやっているか」と。

【大学野球春号 掲載文】

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