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倶楽部報(2016年春号)

松尾先輩との思い出

林 健太郎(平成22年卒 慶應志木高)
新田 あゆみ(平成24年卒 頌栄女子学院高)

2016年04月08日

「何も用事がないなら、わざわざ来なくていい!!」

これが松尾先輩からいただいた最後の言葉であった。叱られてしまった。

このときは、特別の用事があったわけではなく、ただただ会ってお顔を拝見したいと思い、電話をかけてみたのだが、こんなお言葉をいただいてしまった。「そう言われてしまったら仕方ない……」と、二人で溜息をついたのは昨年のことである。

お亡くなりになったという報を受け、このときの電話がすぐさま思い出された。何か用事を取り繕って無理にでも会いに行けばよかった、と今さらながら悔やんでいる。

松尾さん(あえてご生前当時呼んでいたお名前で書かせて頂く)とは、現役マネージャーのときから、三田倶楽部報の制作等(松尾さんには、毎号、「早慶ホームラン物語」をご執筆頂いていた)を通じてやりとりさせていただいていた。当時から、松尾さんには厳しい口調でお叱りを受けることが多かったように思う。

「最近のマネージャーはダメだ」

「申し訳ございません」

お電話や訪問の冒頭に、松尾さんと私たちが交わす会話はいつもこれだった。何度も何度もお叱りをいただいた。それでも、私たち二人とも、松尾さんのお話を伺うのを楽しみにしていた。厳しい口調は塾野球部への深い愛情ゆえ、ご年齢を感じさせない口調と瞳で野球部のあるべき姿を語る松尾さんの熱い思いにふれられるのは、本当に嬉しく、楽しいものであったからだ。そして、いま振り返ると、松尾さんのお言葉ひとつひとつから、ご自身が接してきた塾野球部の歴史に裏付けられた“あるべき塾野球部”の姿をお見せいただいてきたように思う。

幸運なことに、私たちは引退後も倶楽部報の制作、また、野球部125周年の記念誌の編集に関わらせていただくことになった。125周年記念誌は、松尾さんが中心となって纏められた塾野球部100年史の続きにあたる。当然、松尾さんからさまざまなアドバイスをもらうこととなり、ご自宅に伺ってお話をする機会も多くなった。

松尾さんのお机の上にはいつも、野球雑誌や新聞各社の六大学関係記事がスクラップされたご自身の手帳、思い出の品々がところ狭しと積み上げられていた。それを誇らしげに私たちに見せて下さり、また惜しげもなく触れさせて下さったのが懐かしい。そして、厳しいお言葉、ご助言、ご指示の合間、ふとしたときに伺える昔の塾野球部のこと――歴史的な出来事から日常生活の些細なことまで――を聞くのが、私たちにとって何よりの楽しみであった。

年月を経るごとに「だめだ、動けなくなった」と身体の不調を嘆く言葉が多く聞かれるようになったものの、野球のお話をするときには本当に生き生きとされていた。また、亡き奥様との仲睦まじい掛け合いも忘れられない。奥様もまた、松尾さんが塾野球部に在籍していたころの話を大変よく覚えていらっしゃり、おふたりが「あのころは……」などと話し始めると、なんとも楽しい雰囲気となったことが思い起こされる。松尾さんより一年前に天に召された奥様にも、多くの素晴らしい時間をいただき心より感謝している。

短い間ではあったものの、松尾さんとの思い出を挙げればきりがない。それほどに、私たちは現役時代から引退後の広報委員生活に至るまで、さまざまなお教えと思い出をいただいた。本当に感謝の気持ちでいっぱいである。

最後の最後まで、叱られっぱなしであった。しかし、最後まで色々なかたちでお話する機会をいただけたのは、「ダメだ」と言われながらも、少しは信頼を寄せて頂けた証左だと信じている。松尾さんの足もとには到底及ばないが、野球部の歴史一頁一頁を大切に編んでいくことの尊さを胸に、広報委員としての活動に取り組んでいきたいと思う。

慎んでご冥福をお祈り申し上げます。

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